「宗教」について
2015年11月15日更新
こんばんは。フランスで、とても痛ましい事件が発生しました。なんと表現していいのか・・。
自らの意思に反して、その人生を終わることになった犠牲者の皆様、そして、そのご家族の皆様の悲しみがいかばかりのものか・・・。
「宗教」の存在を正面から否定することは、もちろん出来ることではありません。しかし、世の中に「絶対正義」なるものが存在しないことは、「宗教」の大前提に無くてはなりません。
地球に生きる人々が、同じ歴史背景を持って、現代社会を生きているのではありません。
「キリスト教」「イスラム教」「仏教」をはじめ、様々な宗教が成立したのは、その時代・地域に生きた人々が、そのような“宗教”の考え方を受け入れる社会的背景があったからこそであり、現代社会までに影響を及ぼす「宗教」として存続しているのです。
さらに、各宗教の「解釈」により、様々な“分派”が生じて、各々が対立する存在となっていることが、現代社会における、複雑な問題を生じている一因となっているのです。
「宗教」とは、本来、人間が長い人生を生きていくための“知恵”を与える存在である、と、私は解釈しています。
自らの経験だけでは、理解不能な、または解決できない問題に直面したとき、それに対する“解”を指し示すことの出来る存在、それが“宗教”だと考えています。
しかしながら、各「宗教」が成立した時代背景を理解しなければ、自らが欲する“解”にたどり着くことが出来なくなるばかりか、見当違いな方向に、迷いこむことになりかねません。
因みに、私は「積極的無神論者」です。長い人生において、悩み、苦しむことは当然であり、そこに正面から立ち向かうことが人生である、と考えるからです。その結果、取り返しのつかない人生になったとしても、少しも悔いるものではありません。なぜなら、「人生を全力で生きる」とは、そのようなものであると考えているからです。
フランスにおいて凄惨なテロが発生したことは、心から憎むべき残虐行為であることは疑いの余地もありません。
二度と同じようなことが発生しないように、心から祈らずにはいられません。
しかし、「宗教」の存在意義とはどのようなものであるのかを、世界中の人々が真摯に語り合う機会がなければ、未来永劫、同じような悲劇が繰り返される気がしてならないのは、私だけでしょうか・・・。
「宗教」とは本来、人々の気持ちを安らげ、幸福にする存在であるはずです。そのことを前提に、世界中の全ての宗教者が集い、今ある“カオス”を解決されんことを、心から希望して止みません。
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